川崎尚之助 ー-Yahoo!検索
アクセスログから辿った、誰かによるテキスト検索結果。…きのうとほぼ同じキーワードだったが、掘り下げてみたところ
ドラマの中で縁のある「鳥越」の地名が出るまでさして関心を払ってこなかった八重の前夫川崎尚之助という人物が
つい数年前に歴史の上で「復権」を果たしたらしいことを知った。
・第16回 新島八重と川崎尚之助 ~会津に尽くした生涯~ - あさくらゆう - 八重と同志社
新島八重には新島襄と結婚する前、ひとりの男と結ばれていた。
それが川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)だ。
これまでの川崎は不遇の扱いを受けてきた。その悲劇の集大成が昭和六十三年(一九八八)にテレビ
放送された「白虎隊」だ。創作された彼の名前は「なおのすけ」。時代考証に携わったある郷土史家が
根拠もなく「逃げた男」にしたのだ。それ以降、川崎尚之助のイメージは「逃げた男」になった。ドラマの
中の八重は、「他藩の人間だから会津を見捨てるの?」と、このセリフが長年史実として扱われ、平成
二十三年(二〇一一)に「八重の桜」の放送が決まった際、川崎尚之助は「会津藩から逃げた男」として
紹介されたのだ。
ところが史実は、ドラマでも描かれたとおり、旧会津藩士とともに移り住んだ斗南藩の窮状を救おうとして手を出した外国
米の先物取引で詐欺事件に巻き込まれ、数年に及んだ裁判の被告として過ごすうち病を得て死に至った…というもの。
「歴女」を自認する方のサイトで、前述の同志社のサイトに寄稿していた歴史研究家あさくらゆう氏の著書が出典元の
詳細な年表も掲載されている。
彼の一途な献身の結果は、じつに不遇なものとなります。「藩は無関係」として、一身に罪を背負う
かたちとなり、最後は訴訟継続中にかかった慢性肺炎によって死去します。入院・死去した終焉の
場所は東京医学校医院(現在の東京大学病院)です。明治8年(1875)3月20日、享年40という若さ
でした。
…あれれ、ドラマの演出では、あの鳥越の長屋で事切れたように見えたのだが。
山本八重が川崎尚之助と再会するエピソードは小説に登場するが、小説家が伝承を元にして小説に
したのか、小説が広まって伝承となったのかは判断できない。
いずれにしても、山本八重が東京で川崎尚之助と再会したという逸話であり、それを裏付ける資料は
無い。これまでは実話のように紹介されていたが、現在は小説家による創作という説が有力となって
いる。
やはり鳥越の長屋での二人の再会は「物語」として心に留めておこう。
すると残るは、予告編の後のビデオで「近所の人によって近くの寺に葬られた」と語られていた下りだが…
川崎尚之助の遺体は、3人目の身元引受人・根津親徳が引き取り、東京都台東区にある称福寺に
埋葬したとされている。しかし、称福寺に川崎尚之助の墓は無く、詳細は分らない。
現在の東大病院のある本郷だったかどうかはいざ知らず、鳥越の町から離れた病院で息を引き取った挙げ句葬られた
場所は、山谷堀を越えたさらに向こうの隅田川沿いにある称福寺だというではないか。
鳥越界隈に二つ三つあるお寺のどこかに無縁仏として多宝塔か石碑の名残でもあるのでは…と、ドラマを見て勝手に
膨らませていた妄想とは裏腹に、史実は淡々としているという典型例か。
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