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Jan 15, 2010

結局"世間"ということ

ツイッターのニセ鳩山首相騒動で考える「ソーシャルメディア」の近未来 - IT PLUS

「我々のことは放っておいてくれ」と世界の政府に告げた詩人バーロウの「サイバースペース独立宣言」から14年。リアルとネットを区別する考え(あるいはリアル嫌い)は、長くネットユーザーの根底に流れていた「思想」といってもいい。昨年末に起きた鳩山由紀夫首相の「ニセツイッター」騒動をきっかけに、リアル化が進行するソーシャルメディアの近未来を考えてみた。(藤代裕之)

…十六、七年前、YやAさんやNさんたちと組んでやっていた"ホン読み"のバイトのことを思い出す。Yの書く台本の多くは
彼や僕や友人たちの実体験を下敷きにした短編小説じみたストーリーだったが、その次に多かったのが、コンピュータや
ネットワークに関するウンチクばなしだった。…「サイバースペース」という用語を初めて目にしたのも彼の台本だったし、
「ダイナブック」は、東芝の商標である以前にそもそも"概念"であったということも教えられた。あと、2001年宇宙の旅の
「HAL」の語源には二通りの説があるらしい…とか何だとか。

それはさておき、「ゆくゆく、ソーシャルメディアはサイバースペース"から"独立すべきでは?…」というのが、本コラムの
要旨。Googleが自らに課しているミッションなどとは真反対を向いているが、決して後ろ向きではない。尤もな考えだ
と思う。サイバースペースと呼ぶかネット空間と云うか、いずれにせよ、結局は"世間"に過ぎないと思い始めて久しいが、
窮屈さや世知辛さばかりでなく、ユルさも兼ね備えた、より"リアルな世間"であり続けてくれたら…と僕も思うところ。

発言が流れて見えなくなるツイッターや仲間や身内しかいないような気分になるSNSでは、つい気軽に情報発信してしまうが、検索される際などには、前後の文脈が切り離されたコンテンツとして一人歩きすることで、思わぬ読まれ方や誤解が生まれ広がっていく。むろん、書いた責任がある、と言われればそれまでだが、過去についてどこまで責任を取ればいいのだろうか。

人は間違え、失敗する生き物だ。うっかり、思わず、といった発言もある程度は許容されるべきではないか。そうしなければ誰も口を開かなくなってしまう。

自分はネットで情報発信していないから無関係という人もいるかもしれない。アニメ「東のエデン」には、画像認識とタグ付けを組み合わせた検索サービスが登場する。これはフィクションだが、すでに現実にも「セカイカメラ」のように、リアルな構造物に「エアタグ」と呼ばれる文字や画像情報などを重ねて表示する仕組みは整っている、これが人に広がれば本人が情報発信していなくてもログがウェブに残されていく。検索されない自由や権利という主張も出てきそうだが、法制度や社会の仕組みは周回遅 れだ。今後起き得るソーシャルメディアの悲劇の主人公になりたくなければ、そろそろサイバースペースからの「独立」を考えておいたほうがいいのかもしれない。

…きょうココに僕が書いたことだって、厳密に言えば(ry

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